厭 世 日 和

Why I can not become like you...

単独者の憂鬱

デンマークの思想家、キルケゴールの「死に至る病」の中で使われた言葉です。
超簡単に言えば、自らの意志で既存の価値、欲に捉われず神を求める生き様である。
・・・というような解釈をしております。
個人的にこの「神」というは彼の時代の最高の諸価値に回帰するという意味で妥当であったと思います。


俺の家は一応キリスト教なんですけど、特別に信仰心に熱いものはないです。
更に言えば新約聖書より旧約聖書の方が面白いとも感じました。
単独者における「神」とは宗教的な価値で見ればなんにでも例えられると思うんですよね。
それこそ傾倒する思想家、画家、小説家、音楽家でもいいし、
アイドル歌手でも成り立つんです。対象に人生を捧げるような姿勢なら。
しかしながら、果たしてそれは絶対と呼べる程のものでしょうか?
形があるものは無くなってしまうものです。陶酔・熱狂の継続は不確定です。
一時期の心の隙間を埋める道具に過ぎないかもしれません。
勿論、亡くなった人に対しても「神格化」という言葉がある限り否定はできません。
「死に至る病」ではそれそのものである絶望について説いています。
我々って基本的に金が沢山あれば幸せだと想像することが多いんですけど、
自由って意外と虚しいらしいです。それは所謂、哲学(考え過ぎ病?)の副作用でもあると思うのですれど、仮に金が使い切れない程あって働かなくてよい素晴らしい環境になったとしても、やはり自分自身が反映される居場所というものは持っていないと辛いものがあります。
俺は職探し中は3か月無職だったのですれど、友人は働いていたり家庭を持っていたり、遠くに行ってしまったり、自分には恋人も仕事もないしバンドも辞めてしまった。参加する場所が全く無くなったことに身を持って痛感したわけです。


えー、だからといって俺は「会社」を「神格化」はしていないし、危険だと思います。
なんというか、全てを削ぎ落として最後の最後に傍にあって欲しいものが絶対的な「神」のような存在なんです。一体何なんでしょうかね。こんなことに苦悩している人間はあまり居ないと思います。
一般的には家庭を持ってそれを守っていくことが神愛的行為、生き様とされてはいますが、
そんなに深く考えてもしょうがないし、それさえも道徳や義務に抑圧されおかしくなる場合もあるんです。本当は人間って生き物は、考えない方が幸せなんです。
哲学における懐疑性は毒にもなるんですよ。


自分より下の20代の青年達を見渡すと、結構、思慮浅い人の方が幸せそうですね。
友人が沢山いてツイッターやって恋人がいて仕事していて、
暇なときはスマホのネット、アプリを弄って。他愛のない話をする。
一時期は軽蔑していたんですけど、実は彼らがとても羨まく、要は嫉妬していたんですね。
俺は彼らの様になることができないし、共通感覚にもズレがあるから彼らと深い関係も持てない。
「勝手にしやがれ」
という言葉を心に植えつけ、自分を受け入れて生きているつもりです。
孤独に押しつぶされそうな、死にたくなるような朝も夜も。


しかしながら関係の深い人が恋しくなります。
自分と深い関係になれる人っていうのは恐らく現状の関係に満足していない人だけです。
孤独感は同じような孤独感を持った人と寄り添わないと消せないんです。


神無き単独者は明日も元気なフリして働きます。
この記事を理解できた方々、どうか無理をなさらぬように。

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